「苦悩」から「歓喜」へ  (1)

          

 「苦悩」から「歓喜」へ  (2)


 「苦悩」から「歓喜」へ  (3)


 「苦悩」から「歓喜」へ(4)


 「苦悩」 から「歓喜」 へ(5)


「闇」の中から「光」の中へ

 伝道者としてのお釈迦さま

求道者としての沙門(しゃもんゴータマが、6年の厳しい

修行の後、35才で悟りを開かれ、

仏陀(Buddha 覚者)となりました。

しかし、すぐにその心の安らぎを人々に説法されませんでした。

誰でも苦労の末にやっと手に入れたものを

しばらく自分一人でたのしみたい傾向はあります。

お釈迦さまのその心の状況を「自受法楽(じじゅほうらく)」

といいます。仏伝には、成道の後、沈黙するお釈迦さまに、

悩み苦しみ人々を救済するために説法を懇願する

「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」の物語があります。

では、もし梵天が説法を懇願しなければ、お釈迦さまは

説法に踏み切られなかったのでしょうか?

そうではないでしょう。

では、仏伝で「梵天勧請」が説かれる真意はなぜでしょうか?

それは、一つにはお釈迦さまが説法にためらいと沈黙が

あったことを示すためでしょう。

悟った法(Dharma 真理)は、極めて難解で、

悟りの境地を言葉で表現することは、さらに困難と思われた

からに違いありません。

皆さまも初めてチョコレートを食べて、食べたことのない人に

その味を説明する時、きっと正確に伝えられないと

思うことでしょう。

「苦味(にがみ)があり、とろけるようで、しかも甘い」と

説明しても、体験しなければ、本当の味は相手に伝わらない

じれったさを感じることです。

お釈迦さまも説法しても相手に正確に伝わらなければ

徒労に終わると当初に思われたのでしょう。

それだけに、そのためらいと沈黙を破って、初めて

「真理の伝道者」としての道を歩み出された最初の説法の

「初転法輪(しょてんほうりん)」の意義を高めるのも

「梵天勧請」です。

仏伝に「梵天勧請」が説かれるもう一つの意味は、

なぜ説法の懇願者が梵天だったのかにあります。

「梵天」とは、当時のインドにおいてバラモン教、ことに

ウパニッシャド哲学で説かれていた

「梵(ぼん)ブラフマン Brahman)」を神格化した

宇宙創造の神のことです。すべての現象世界は

「梵」が展開変化して生じたものとし、

個人の中心生命の「我 アートマン」と本質的に

同一であるとして、「梵我一如(ぼんがいちにょ)」

解脱の境地を説き勧めていたのです。

当時のインド庶民の信仰の対象者の梵天を

お釈迦さまの説法の勧請者とするのは、

お釈迦さまの悟りの内容の方が梵天の教えよりも

優れていることを強調するためでしょう。

お釈迦さまが、ためらいと沈黙を破り、80才で亡くなる

まで45年間もの長い間、真理の伝道者を全うされた

根拠とエネルギーは、自分自身が悟られた「真理(法

ダルマ Dharma)」にあったのです。

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