わが町「大正区」了照寺の歴史を学ぶ

☆わが町「大正区」の歴史(1)

☆わが町「大正区」の歴史(2)

   Q.「大正区」という名前の前は何だったの?
  

A、まず、「大正区」になる前の名前について、ご説明しましょう。

江戸幕府は、元禄11年(1698)、畿内における新田開発を


奨励する御触書(おふれがき)を出しました。


この幕府の新田開発奨励策を受けて、


 三軒家から西南沖に向かって新田開発を始めた方が、


北村六右衛門宗俊(むねとし)でした。


今から約300年前の元禄15年(1702)に、 



北村六右衛門宗俊氏が干拓してできた新田は、その

出身地の(せんしゅう)(つくのお)村の国名と村名から

一字ずつとって「泉尾新田(いずおしんでん)」と名付けられました。

現在の「泉尾」という地名は、この「泉尾新田」に由来するのです。


福田山 了照寺は、今からちょうど300年前の元禄15年(1702)

泉尾新田を開発した第四世北村六右衛門宗俊氏によって開創された

念仏道場としての庵寺に始まります。

泉尾新田の開発は、木津川の河口に開けた三角州を利用して

進められたのですが、海を埋め立てて耕作地を造成することは

かなりの難事業でした。開発のために労働力として必要だった

人夫や牛馬の中には犠牲となったものもいました。

仏教の信仰心の篤かった宗俊氏は、新田開発工事で犠牲になった

人夫・牛馬・魚介類などの成仏を願って庵寺を建てられました。

その後、泉尾新田の念仏者たちは、この庵寺を寺院へ

とする願いが高まり、宝暦11年(1761)の親鸞聖人

500回ご遠忌を機にその気運は最高潮に達しました。

翌々年の宝暦13年(1763)10月、阿弥陀如来絵像を迎え、

本山の本願寺からご本尊として認められ、寺号を許されました。

その寺号は、泉尾新田を開発された北村六右衛門宗俊氏

法名「貞」と妻の伊和様の法名「貞」から一字ずつ取って

了照寺」と名付けられました。

了照寺のご本尊と裏書




その裏書には、


方便法身尊形   本願寺釋法如 花押


寶暦十三癸未年陽月三日


源光寺門徒攝津國


西成郡泉尾新田


惣道場了照寺


と書かれています。このことから「大正区」という地名になる前の

最初は、「西成郡泉尾新田」(にしなりのごおり いずおしんでん)

であったことがわかります。

現在のご本尊の阿弥陀如来のお木像





了照寺のご本尊のお木像の足裏のホゾ(蓮台に差し込む部材)には

康雲拝見」の墨書があります。

これは本願寺の仏師の渡辺康雲が、

「拝見して浄土真宗の本尊として安置することに問題がない」と

証明したものです。(下の写真の左)





なお、このご本尊は、了照寺の所蔵されている古文書「木佛御礼」に、

木佛尊像

釋文如 花押

寛政丁巳年五月十日

源光寺門徒攝津國

西成郡泉尾新田

惣道場

了照寺之物

とあり、寛政9年(1797)5月10日に本願寺第18代文如上人の署名を

受けて本願寺に許可されたことを示しています。(上の写真の右)

ここでも、「大正区」は「西成郡泉尾新田」と記されています。

このことから、「大正区」の最初の地名は

「西成郡泉尾新田」(にしなりのこおり いずおしんでん)であったことがわかります。

もちろん、現在の「大正区」は、「泉尾新田」が干拓される前にあった

「三軒家浦新田」と、泉尾新田の後に干拓された「炭屋新田」「千島新田」

「平尾新田」などを総称して、1932年(昭和7)に名付けられました。



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