「読む」・・・お経を学ぶ(2)

 「読む」・・・お経を学ぶ(1)『讃仏偈(さんぶつげ)』


☆ 『重誓偈(じゅうせいげ)』について学びましょう。


  『重誓偈』は、浄土三部経(『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』


『仏説阿弥陀経』)のうち、最も重要な『仏説無量寿経』の中にあります。


 『仏説無量寿経』は、宗祖の親鸞聖人(しんらんしょうにん)


「真実の教え」と讃えられた経典です。阿弥陀仏の浄土建立と


私たち凡夫が極楽浄土に往生できるいわれが説かれています。


 阿弥陀仏は、阿弥陀仏が成仏する以前の法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)


であった時に、その師仏であった世自在王仏(せじざいおうぶつ)のもとで、


48の本願をおこされました。


 その後、法蔵菩薩は、重ねてその48の願の要旨を11の偈の歌詞


として表現されたのが、この『重誓偈』なのです。特にその初めの


三偈において誓願の要旨を重ねて述べられてますので、「三誓偈」


とも呼ばれています。

  『重誓偈』の経文
 書き下し文
現代語訳文と語句の説明
が ごんちょうせいがん

我 建 超 世 願
われ超世の願を

建つ、
わたしは世に超えたすぐれた願を

たてた。
ひっ し む じょうどう

必 至 無 上 道
かならず無上道

に至らん。
必ずこの上ないさとりを得よう。
し がん ふ まんぞく

斯 願 不 満 足
この願満足せず
は、
この願をはたしとげないようなら、
せいふじょうしょうがく

誓 不 成 正 覺
誓ひて正覚を成

らじ。
誓って仏にはならない。
が お む りょう こう

我 於 無 量 劫
われ無量劫にお

いて、
わたしはかぎりなくいつまでも、
ふ い だい せ しゅ

不 為 大 施 主
大施主となりて、 大いなる恵みの主となり、
ふ さい しょ びん ぐ

不 済 諸 貧 苦
あまねくもろもろ

の貧苦を済はず

は、
力もなく苦しんでいるものをひろく

救うことができないようなら、

「貧苦」智慧も能力も貧しい者
せいふじょうしょうがく

誓 不 成 正 覺
誓ひて正覚を成

らじ。
誓って仏にはならない。
が し じょうぶつどう

我 至 成 佛 道
われ仏道を成る

に至りて、
わたしが仏のさとりを得たとき、
みょうしょうちょうじっぽう

名 聲 超 十 方
名声十方に超え
ん。
その名はすべての世界に超えす

ぐれ、

「名声」→阿弥陀仏の名号(みょうごう・名

前)のこと。
く きょう み しょ もん

究 竟 靡 所 聞
究竟して聞ゆると
ころなくは、
そのすみずみにまで届かないよう
なら、
せい ふ じょうしょうがく

誓 不 成 正 覺
誓ひて正覚を成
らじ。
誓って仏にはならない。
り よく じん しょう ねん

離 欲 深 正 念
離欲と深正念と、 欲を離れて心静かに、

「深正念」→深い禅定(精神統一)の境

地。
じょう え しゅぼんぎょう

淨 慧 修 梵 行
浄慧とをもって梵

行を修し、
清らかな智慧をそなえて菩薩の修

行に励み、
し ぐ む じょう どう
志 求 無 上 道
無上道を志求し

て、
この上ないさとりを求めて、
い しょ てん にん し

為 諸 天 人 師
諸天人の師とな

らん。
天人や人々の師となろう。
じん りき えん だい こう

神 力 演 大 光
神力、大光を演
)べて、
不可思議な力で大いなる光を放
ち、
ふ しょう む さい ど

普 照 無 際 土
あまねく無際の

土を照らし、
果てしのない世界をくまなく照らし

て、

「無際の土」→果てしのない世界。
しょう じょ さんくみょう

消 除 三 垢 冥
三垢の冥を消除
して、
煩悩の闇を除き去り、
こう さい しゅ やく なん

廣 済 衆 厄 難
広くもろもろの厄

難を済(すく)は

ん。
多くの苦しむものをひろく救いた

い。
かい ひ  ち  え げん

開 彼 智 慧 眼
かの智慧の眼を

開きて、
智慧の眼を開いて
めっ し こん もう あん

滅 此 昏 盲 闇
この昏盲の闇を

滅し、
無明(むみょう)の闇をなくし、

「昏盲の闇」→智慧のない位状態で、そ

の暗さを闇に喩える。

「無明」→真理に暗く、もののあるがまま

のありようを明らかに理解できないという、

最も根本的な煩悩。迷いの根源。
へい そく しょ あく どう

閉 塞 諸 悪 道
もろもろの悪道を

閉塞して、
迷いの世界の門を閉じて、
つう だつ ぜん しゅ もん

通 達 善 趣 門
善趣の門を通達

せん。
さとりの世界の門を開こう。
こう そ じょう まん ぞく

功 祚 成 満 足
功祚、成満足し
て、
すべての功徳をそなえた仏となっ

て、
い よう ろう じっ ぽう

威 耀 朗 十 方
威曜十方に朗ら

かならん。
そのすぐれた輝きはすべての世界

に行きわたり、

「威曜」威神光曜。すぐれた輝きのこと
にち がつしゅう じゅうき

日 月 葺戈重 暉

*「しゅう」の漢字「葺戈」は

草冠がないのが正しい
日月、重暉を

葺戈(おさ)めて
太陽も月もその光を奪われ、

「重暉」日と月の光による二重の輝き。
てん こう おん ぷ げん

天 光 隠 不 現
天の光も隠れて

現ぜじ。
天人も輝きを隠すであろう。
い しゅ かい ほう ぞう

為 衆 開 法 蔵
衆のために法蔵

を開きて、
人々のためにすべての教えを説き

明かし、

「法蔵」→法門の蔵。真理をおさめた蔵。
こう せ  く どく ほう

廣 施 功 徳 寶
広く功徳の宝を

施せん。
ひろく功徳の宝を与えよう。

「功徳の宝」→阿弥陀仏の名号のこと。
じょうお だいしゅちゅう

常 於 大 衆 中
つねに大衆のな

かにして、
常に人々の中にあって、
せっ ぽう し し く

説 法 師 子 吼
法を説きて獅子

吼せん。
獅子が吼えるように教えを説こう。

獅子吼」→仏の説法を獅子のほえる声

に喩えた語。獅子のほえる声が百獣を畏服

させるように、仏の説法はすべての衆生を

信順させるという意を

あらわす。
く よう いっさいぶつ

供 養 一 切 佛
一切の仏を供養

したてまつりて、
すべての仏がたを供養し、
ぐ そく しゅうとくほん

具 足 衆 徳 本
もろもろの徳本を

具足し、
さまざまな功徳をそなえ、
がん ね しつじょうまん

願 慧 悉 成 満
願と慧ことごとく

成満して、
願も智慧もそのすべてを満たし、
とく い さん がい おう

得 為 三 界 雄
三界の雄たること

を得ん。
世界中でもっともすぐれたものとな

ろう。
にょ ぶつ  む  げ  ち

如 佛 無 礙 智
仏(世自在王仏)

の無礙智のごと

く、
師の仏の何ものにもさまたげられ

ない智慧が
つう だつ み ふしょう

通 達 靡 不 照
通達して照らさざ

ることなけん。
すべてを照らし尽くすように、
がん  が  く  え りき

願 我 功 慧 力
願はくはわが功

慧の力、
願わくは、わたしの功徳や智慧の

力も、
とう し さいしょうそん

等 此 最 勝 尊
この最勝尊(世自

在王仏)に等しか

らん。
このもっともすぐれた仏のようであ

りたい。
し がんにゃっこっか

斯 願 若 剋 果
この願もし剋果せ

ば、
この願いが果たしとげられるなら、
だいせん おうかんどう

大 千 應 感 動
大千まさに感動

すべし。
天も地もそれにこたえて打ち震

え、
こ くうしょてんにん

虚 空 諸 天 人
虚空の諸天人 空からはさまざまな天人が
とう う ちんみょうけ

當 雨 珍 妙 華
まさに珍妙の華

を雨(あめふ)らす

べし。
美しい花を降らすであろう。
『重誓偈』の経文はここま

で。 以下は念仏と回向文
勤行としてお勤め

ください。

な ま ん だ ぶ

南無阿彌陀佛
阿彌陀佛に南無

せよ。
阿弥陀仏にまかせよ、必ず救う。

(阿弥陀仏からの喚び声)

「阿弥陀仏」の「阿弥陀」とは「無量

の」という意味のサンスクリット語

「アミタ(amita)」の音写語。

「仏」は「仏陀」の略語で、「(真理

に)目覚めた者」を意味するサンス

クリット語「ブッダ(Buddha)」の音

写語
な まん だ ぶ

南無阿彌陀佛
阿彌陀佛に南無

せん。
阿弥陀仏におまかせします、信じ

ます。(信者からの感謝の声)

「阿弥陀仏」は、「無量の光明」

意味するサンスクリット語「アミター

バ」「無量の寿命」を意味するサ

ンスクリット語「アミターユス」の二

つの特長を持つ仏陀(真理に目覚

めた者)。

「南無」は、サンスクリット語「ナマ

ス(namas)またはナモ(namo)」の

音写語で、「帰依する」「信順する」

という意味。
な ま ん だ ぶ

南無阿彌陀佛
阿彌陀佛南無

せよ。
念仏は、今日では一般に「南無阿

弥陀仏」と称えること。もともとイン

ドではこの称名念仏だけを指すも

のではない。「念仏」とは、サンス

クリット語「ブッダ・アヌスムリテ

ィ」、仏を心の中で思念すること。
な ま ん だ ぶ

南無阿彌陀佛
阿彌陀佛に南無

せん。
その後、仏の姿や特徴をしっかり

と観察し思念する観念の念仏のこ

ともいう。さらには口に仏の名を称

えることにより仏を実感する口称

念仏(くしょうねんぶつ)という実践

行も意味するようになった。
な ま ん だ ぶ

南無阿彌陀佛
阿彌陀佛に南無

せよ。
宗祖の親鸞聖人は、「南無」の意

味は「帰命する」であり、「本願招

喚(ほんがんしょうかん)の勅命」

いわれた。招喚とは、「念仏して浄

土に往生しなさい」と阿弥陀仏自

身が招き喚んでおられるというこ

と。すなわち、阿弥陀仏に帰依す

ることも、実は仏の働きかけによる

(他力)と示された。「南無阿弥陀

仏」の六字全体を仏の「名号(みょ

うごう)」として本尊とし、、名号に

私たち凡夫が往生成仏できる功

徳が具わっている、名号のいわれ

を聞信すべきであるとされた。
な ま ん だ ぶ

南無阿彌陀佛
阿彌陀佛南無

せん。
蓮如上人(本願寺第八代宗主)

は、「信心正因」(阿弥陀仏の本願

を信じることが往生成仏の正しい

原因)「称名報恩」(念仏を称える

のは阿弥陀仏の救いに対するご

恩に報いる感謝の行為)を強調さ

れた。

「南無阿弥陀仏」は「ナモアミダブ

ツ」と称えたり、時には「ナマンダ

ブ」と称える。
がん に しくどく

願以此功徳
願はくは、この功

徳を以て
この回向文は、善導大師(浄土真

宗の七高僧の第五祖、紀元七世

紀頃在世の中国浄土教の大成

者)の著作『観経疏(かんぎょうし

ょ)』の「玄義文(げんぎぶん)」

序の偈文。

願わくは、この尊い功徳をもって
びょうどうせいっさい

平等施一切
平等に一切に施

し、
すべてのものに与え
どうほつぼだいしん

同發菩提心
同じく菩提心を發

し、
もろともに信心をおこして
おうじょうあんらっこく

往生安楽國
安楽國に往生せ

ん。
安楽国に往生しよう

 

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