☆現在の了照寺
宗派と所属 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺)大阪教区 臨港組(りんこうそ) |
住 所 | 〒551−0002 大阪市大正区三軒家東4−15−7 |
電話とFAX | рO6−6551−2288 FAX06−6552−0805 |
住 職 | 第14世 宮本 献 璽(みやもとけんじ) |
副 住 職 | 宮本 淳 慈(みやもとじゅんじ) |
坊 守 | 宮本 裕見子(みやもとゆみこ) |
☆ 現在の了照寺の本堂
昭和20年(1945)3月13日夜半にアメリカ軍による
大阪大空襲により、14発の焼夷弾を落とされた本堂は、
前住職の宮本大亨師の命懸けの
消火活動にもかかわらず、焼け落ちてしまいました。
その後、昭和25年(1950)7月に仮本堂が元の位置に
再建されましたが、その直後の9月に
ジェーン台風により多大の被害を受けました。
ようやく前住職の念願がかない、昭和48年(1973)12月に
現在の本堂が完成しました。大正区は海抜0メーター地帯で、
了照寺もたびたび被害を受けていましたので、
前住職の強い要望により本堂は2階になったのです。
本堂の内部
現在のご本尊の阿弥陀如来のお木像
了照寺のご本尊のお木像の足裏のホゾ(蓮台に差し込む部材)には
「康雲拝見」の墨書があります。
これは本願寺の仏師の渡辺康雲が、
「拝見して浄土真宗の本尊として安置することに問題がない」と
証明したものです。(下の写真の左)
なお、このご本尊は、了照寺の所蔵されている古文書「木仏御礼」に、
木仏尊像
釋文如 花押
寛政丁巳年五月十日
源光寺門徒攝津國
西成郡泉尾新田
惣道場
了照寺之物
とあり、寛政9年(1797)5月10日に本願寺第18代文如上人の署名を
受けて本願寺に許可されたことを示しています。(上の写真の右)
木仏尊像
釋文如 花押
寛政丁巳年五月十日
源光寺門徒攝津國
西成郡泉尾新田
惣道場
了照寺之物
とあり、寛政9年(1797)5月10日に本願寺第18代文如上人の署名を
受けて本願寺に許可されたことを示しています。(上の写真の右)
☆ 了照寺の庫裡と納骨堂
昭和61年(1986)11月に庫裡(くり)の改修工事と
納骨堂の新築工事が完成しました。
庫裡(住職などの寺族の住居)
庫裡の屋根には、平成9年(1998)2月に太陽光発電
システムが設置されました。太陽光は無限でクリーンで
環境にやさしいエネルギーです。
かなり高額な工事費(約480万円)でしたが、
そのうち約200万円は政府から補助金が出ました。
原子力発電は、ロシアのチェルノブイリの事故のように
ひとたび事故が起きますと、人間が造った物ですのに
簡単にコントロールできなくなり、被害が大きいのです。
最近、太陽光発電は研究開発の結果、効率も良くなり、
低価格化も進みました。
いずれエアコン並みの低価格になって全家庭に
普及するようになれば、総発電量は相当な量となり、
原子力発電に代わるエネルギーになることが望まれます。
昭和61年(1986)に本堂への階段の上に新築された納骨堂
納骨堂の内部
納骨御仏壇47基が設置されました。
さらに平成14年(2002)3月に本堂の正面の入口に
唐破風(からはふう)形式の屋根工事が完成し、
現在の状態となりました。
☆ 了照寺の開基像
上の写真のお木像について
江戸幕府は、元禄11年(1698)、畿内における新田開発を
江戸幕府は、元禄11年(1698)、畿内における新田開発を
奨励する御触書(おふれがき)を出しました。
この幕府の新田開発奨励策を受けて、
三軒家から西南沖に向かって新田開発を始めた方が、
上の写真のお木像は、今から約300年前の
元禄15年(1702)に、大阪湾の干拓工事を完成した
北村六右衛門宗俊氏とその妻の伊和様のお木像です。
孫の速治氏が宗俊氏の業績を讃えるため
延享2年(1745)に制作されました。
もとは、北村家にありましたが、
昭和28年5月の了照寺開創250年記念法要の時に
了照寺に移されました。
北村六右衛門宗俊氏が干拓してできた新田は、その
出身地の泉州(せんしゅう)踞尾(つくのお)村の国名と村名から
一字ずつとって「泉尾新田(いずおしんでん)」と名付けられました。
現在の「泉尾」という地名は、この「泉尾新田」に由来するのです。
また、「了照寺」という寺号は、泉尾新田を開発された
北村六右衛門宗俊氏の法名「了貞」と
妻の伊和様の法名「照貞」から
一字ずつ取って「了照寺」と名付けられたのです。
☆もう一つの開基像
一字ずつとって「泉尾新田(いずおしんでん)」と名付けられました。
現在の「泉尾」という地名は、この「泉尾新田」に由来するのです。
また、「了照寺」という寺号は、泉尾新田を開発された
北村六右衛門宗俊氏の法名「了貞」と
妻の伊和様の法名「照貞」から
一字ずつ取って「了照寺」と名付けられたのです。
☆もう一つの開基像
上の開基像は、「北村診療所」に安置されています。
大正区永楽橋交差点の西に30m入ったところに、「北村診療所」が
あります。その二階の仏間に開基像が安置されています。
了照寺の本堂の内陣に以前から安置しています開基像と同じ頃に
制作されたものと思われますが、より写実性に富んでいます。
特に北村六右衛門宗俊氏のお顔は、泉尾新田の干拓事業という
大工事をやり遂げた気力に満ちあふれています。
奥様の伊和様のお顔はふくよかです。きっとご主人の大事業を
温かく見守り、ご協力なされたのでしょう。
「北村診療所」は平成17年11月1日に改築されました。
改築後の北村診療所
「北村診療所」は、了照寺を今から約300年前に開創された
北村六右衛門宗俊氏の御子孫である北村智治(第十五世
北村六右衛門)様が開設されました。
智治様は、済生会泉尾診療所時代から済生会泉尾病院の
初代院長を勤められ、引退後に北村診療所を開設されました。
平成13年2月3日に行年87才で往生されるまで、泉尾の土地で
医療に尽力されてきたのは、先祖代々の北村家がご縁のある
泉尾の住民に貢献したいという願いからだと思われます。
その長男さんの北村彰英(第十六世北村六右衛門)様も、
そのご遺志をつがれ、「北村診療所」で医療に専念しておられます。
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